昨日、蜷川実花の写真展に行ってきた。
授業が終わった後、チャリをすっ飛ばして駅へ。
どうでもいいけれど、新宿駅の乗り換えでうまく通れる確率が未だに五分五分なんですが。
切符もPASMOもはじかれます…。自動改札なんて嫌いだ…。
どうにかこうにか最寄り駅にたどり着き、会場に到着。
土曜の午後だったせいもあって、けっこう混んでました。
いくつかのテーマに分けられた写真が、400枚以上。
彼女の写真は、あまりにも鮮やかすぎて禍々しいような、作り物めいた印象がある。でも、それが決して悪いものにはなっていない。ぎりぎりの所で踏みとどまることができる、驚異のバランス感覚、そういうものを持った希有な写真家だと思う。
美しい物、整った物だけが写されているわけではない。
カビの生えた造花、くしゃくしゃの子犬、大量生産された人形、安っぽいポルノ雑誌めいたポージング。それすらも圧倒的な色彩の前には、ただの撮影対象でしかない。
みずみずしい花も、美しく着飾った女性も、抜けるような青空も、蜷川実花の前には全て対等に対象として写される。
彼女の写真を見るたび、それでも世界は美しい、その一言が頭をよぎる。
よく他大学(美術に関わりない)の人から聞かれることに「絵じゃなくて写真じゃダメなの?」という問いがある。心象画ならともかく、風景画や静物画なら写真でいいんじゃないの?という意味で。
そう言われると、そもそも写真と絵の違いって何よ、って話になり、深く考えずに尋ねた相手が「もう勘弁してください…」と泣きそうになるまで、えんえん語ってうんうん唸るハメになるのですが。
最近考えているのは、写真と絵では主体となる力が違うんじゃないか、ということ。
写真は瞬発力の芸術、絵は持久力の芸術、なのかもしれないと考えている。
もちろん写真にも持久力は必要だろうし、クロッキーのように瞬発力が主体となる絵もあるのだけど。
写真を撮るとき、この一瞬、この構図、この光しかありえないと見極めて、シャッターを切るその動きは瞬発力の結晶だと思う。絵を描くとき、明確な終わりの無い中で、一つ一つの線・構図・色、そうした物達に最善を尽くそうと全身で動き続けることは、持久力の塊だと思う。
でも、なんだかんだ言って区分しようとしても、結局は根っこの部分でつながっているんでしょうけども。こういうつらつらとした、取り留めのないことを考えることは結構好きです。
そして会場でもらったチラシで「ルーブル美術館展」の開催を知る。
200点が来日…!やるな国立新美術館&朝日新聞!
来年3月末から6月頭までの開催だそうです。這ってでも行く。